昨年2023年4月30日、KNOW NUKES TOKYOの主催で開催された「KNOW NUKES FORUM」の第三部で「グローバルヒバクシャと福島」と題し「世界のヒバクシャと出会うユースセッション」を実施。福島県双葉郡大熊町のご出身で、現在、大熊未来塾の代表として伝承活動に取り組む木村紀夫さんをゲストに、福島の原発事故による被害とそこから考えることについてお話いただきました。
崇徳高校新聞部提供
福島県の海岸沿い、浜通り地域には1971年に双葉町と大熊町の境界に東京電力福島第一原子力発電所が完成し、その後、富岡町と楢葉町の境界には第二原子力発電所、楢葉町と広野町の境界に広野火力発電所が設置され、首都圏で使われる電気を約40年に渡って賄っていました。現在も広野火力発電所では発電が行われ、電気が供給され続けています。
木村さんは冒頭、大熊町が原発の設置前から国策によるエネルギー供給の試験場があったことに触れました。資源の少ない日本で、木質燃料の活用が検討され、設置された製炭試験場には全国の人々が集まってきていたと。「国のために捨て石になるんだ」という気持ちで、海から運ばれて置かれた「捨石塚」が山中に現存します。
戦後、元々は稲作や梨の栽培が主な産業であったのが、高度経済成長の中で立ち行かなくなり、地元の人々、特に家庭を支える役割を担う男性たちは首都圏に出稼ぎに行くように。原発の誘致は、そうした出稼ぎ労働を不要にした一方、「40年後、原発が爆発してしまった」のでした。
原発事故の発生時、誰も住めなくなったところから、2019年の4月に一部地域が解除、2022年6月30日には大野駅周辺も解除され、実質、元住民の6割が帰れる状況になったと言います。しかし現状は、元住民の人々の帰還は200人足らず。事故前の2%未満です。
加えて、原発の周りには中間貯蔵施設も作られました。
中間貯蔵施設とは「福島県内全体が汚染されてしまったので、その汚染物質を2045年まで保管する場所」。7割の地権者の方は自分の土地を国に売却、2割の方は地上権を貸している状況ですが、「私は売る気も貸す気もない」と木村さんは語ります。
あの日
木村さんは、「あの日」からの出来事をお話してくださいました。
以下、当日お話を書き起こしたものをベースに掲載します。
海が目の前の自宅。大きな家に、家族六人で生活していましたが、震災で津波が上がり、自宅に帰ると何もないという状況。父親、妻、次女の汐凪が津波で流されてしまった。その日の夜ずっと捜索をするが、残念ながら見つけることはできず。次の日には事故による避難指示が出てしまい、避難せざるを得ない状況となり、捜索がまともにできない、そんな2011年から現在もそんな感じです。
母親と長女を妻の実家の岡山に避難させ、福島に3月18日に戻りました。原発が爆発し、大熊町に入りづらい状況の中で、どっかで生きてると信じてこのチラシを作り、県内外の行政機関や避難所を回った。だけどもちろん見つからない。
4月10日、妻の死体が海上40キロ離れたいわき沖で発見される。それに続き、4月29日には父親が自宅前の田んぼで発見される。5月20日頃にはやっと自衛隊が捜索に入るが、次女の汐凪だけが見つからない。
それ以降、自分が入れる機会を作って、独自に捜索を始める。何をやっていいかわからない。海岸に打ち上げられた瓦礫をかいてみたり、なみ消しブロックの間を見てみたり、そんな捜索をしてみた。
2013年になるとボランティアが捜索に参加してくれるように。自衛隊が捜索した後、瓦礫を積んで山にして置いてある場所が何箇所かあって、その一番海に近い瓦礫の捜索をボランティアと一緒にやりました。
2014年にはこのエリアを中間貯蔵施設にするという話が持ち上がり、住民説明会があったが、私としてはそれに協力できませんと。家族がね、こういう状況になったこの場所を、国に譲ることはできないと言わせてもらった。それに対して帰ってきた環境省の担当者の言葉が、「行方不明者がここにいるなんて初めて知りました」と。
私としては呆れてしまったんですね。
それ以降、環境省としては、中間貯蔵施設を造成するにあたって、一通り捜索をしてからやりますというスタンスではあったが、こんなことを言ってしまうような行政に捜索を依頼しても、自衛隊さえ見つけられなかったので、ちゃんとやってはもらえないだろうなと思って、連絡は来るんだけど、無視してました。
捜索を続けますが、残念ながら、重機を使う許可が出ない。ずっと手作業をやっていました。残念ながら遺骨については見つけられないけど、遺品は約50点見つかった。
見つかった遺品の一部が展示される原子力災害考証館
こういうものが見つかるとボランティアの雰囲気もよくなり、一緒に活動することが私自身にとっても癒しの時間となっていた。大変な作業とわかっていたけど、これを続けていくというところで意識が止まっていたが、ボランティアのおかげで結果を出したいと改めて思い始めて、2016年9月に環境省による捜索を依頼。11月から捜索が始まった。重機などを使って瓦礫を除く作業を続けると、最初に見つかったのはランドセル。それに続いて、ミッキーのぬいぐるみのついたマフラーが2016年の12月9日に見つかり、そこから首の骨の一欠片が見つかった。それから1ヶ月から2ヶ月の間に汐凪の遺骨の2割くらい見つかりましたが、未だに8割は見つかっていません。
一つあれ?と思ったことがあります。汐凪が津波に流されて亡くなったのか、それとも置き去りにしたことで亡くなったのかがわからなくなった。そう考えるのには一つ根拠があって、地元の消防団が震災の次の日3月12日まで避難のギリギリまで捜索をしてくれている。その中の四人が声を聞いているんですね。声が小さくてどこから聞こえているのかわからない。水田地帯だったので水没している。全くわからない中で、結局、消防団としては避難の誘導、自分達も避難しなくてはならないという状況で捜索を続けることができず、ずっと捜索することのできない状況が作られてしまった。原発事故によって。
ていうところから考えると、その声の主は、父親だった可能性が高い。汐凪の遺骨が見つかったあたりを考えると、その辺りに汐凪が生きていた可能性がゼロではなくなったし、これについては今はもうわからない状況ではあるけど、少なくとも原発事故はそういう状況を生み出してしまう。
私の前で、原発の職員の方が言っていました。
「原発事故によって亡くなった人はいない」
よく言えたもんだって、私自身は呆れてしまったんですけれども、そういう可能性を生んでしまう原発であるっていうことは確かだと思います。
それと、昨年(2022年)の1月2日にも、右の大腿骨が見つかった。5年ぶりに発見されたんだけど、見つかったのは一通り捜索した場所だったんですね。
これを見つけるきっかけをつくったのが、沖縄のガマフヤーの具志堅隆松さん。この方と2年前かな、ちょっと縁があって知り合うことができ、私自身も沖縄に行ってきました。沖縄の地上戦の遺骨がまだ見つかるっていう状況を目の当たりにして、すごいショックを受けた。そして具志堅さんが、ぜひ(汐凪の)捜索に加わらせてくださいと。
この方がきっかけで、大腿骨が見つかった。具志堅さんが捜索に参加したことがきっかけでした。
この発見でまた一つ気づいたことがあります。5年前に国が主導しての捜索が終わっています。普通であれば、防潮堤ができて、かさあげされている。そうなっていれば、この大腿骨は見つかっていない。
そう考えると、東北の被災地の復興のために作られている防潮堤の下にまだ、遺骨は残っているよね、そんなことに気がつきます。
それはある意味、沖縄の現状にも通じるものがあって、未だに簡単に遺骨が見つかるんだけど、その収集については国は積極的に関わっていないという状況。さらには辺野古の埋め立てについて、遺骨の混じっている土が使われるっていうことを考えたときに、これ本当に人のやることなのかな、と。
もちろん、自然災害と戦争の違いこそあれ、状況は一緒だなと感じたりしました。
そんな中で今現在は、経験したことを大熊町で伝える活動をしていますが、どんなことを伝えているかというと、一つは防災。あの時ああしておけばよかったという後悔が私の中にもいくつかある。それを次の災害時に活かせるような、教訓として残す、伝えていくということが一つ。もう一つはやっぱり、原発事故。自分もいろんな形で、いろんな場所で伝えているが、伝えていくほどに原発事故のもたらしたものの重大さ、社会問題としての重大さを感じるようになり、その辺のお話をさせていただいています。
私としては原発を否定するつもりはない。でも、結果的にそう取られてしまうことが多い。震災以後、これっておかしいんじゃない?っていうのをね、行政側の対応であったり、何度か経験させてもらう中で、それを話し、伝えることで、やっぱりなかなかそういうことって福島って伝わっていってないと思う。どちらかというと、これから頑張って復興して、福島を盛り上げていくっていうところに重きが置かれていて、残念ながら経験したことをしっかり伝えていくっていうところまで福島はいってません。
ちょっとでも伝えていかないとという気持ちもあって、こういう話をさせていただいている。1000年後の先まで、幸せな営みが続くための問い、モヤモヤを持ち帰ってもらっているわけだが、その中の一つとして、自宅近くに一本だけ生き残っている松があり、そこにミサゴという猛禽類が夫婦で巣を作っています。汚染された土や枝を使って巣を作り、主食は魚なので、これから処理水が流されるであろう海から魚をとって、子どもたちに与えて、ここ3年で7羽のひなが巣立っている。
普通に、人間以外の生活はここで営まれている。人間ってすごいずるいんじゃね、自分たちがしでかしたことでここを汚染してしまって、自分たちは逃げて、他の生き物は普通に生きているんですよね。それこそ、最終処分がちゃんと決まっていない使用済み核燃料って、核種によっては何億年と残っていく。その処理をしていかなくてはいけない。決着をつけるのは自分たちじゃなくて、未来の人たち。それを考えると、それでいいの?と思ってしまう。
そんなことを現地で伝えています。原発の近くで。自分の経験したことから。
これは猪だが、震災後一時期すごく増えました。自宅周辺の田んぼを見ると、お母さんがウリ坊を連れて歩いている姿をたくさん見たけど、今は全くい見ない。豚コレラが蔓延してしまって、かなりの数減ってしまって。でもこれは、ある意味で自然によって調整されたと言える。人はそれに対して抗って生きることができる。だけど、そうやって生き続けていくのであれば、生き方をもうちょっと変えていく必要があるんじゃないかのかなと感じる。この話は、みなさんに無関係ではなくて、そもそも(原発の作っていた電気は)首都圏に送られていたわけで。そこだけの問題ではなくて、これを機会に、自分ごととして考えていただければなと。
原発事故というグローバルな出来事
木村さんのお話のあとは、日本以外の地域で語られる原発事故、変わっていく街並みや「残す」ということについて言葉が交わされました。
瀬戸
2011年、オーストラリアの先住民の代表の方が、私たちの大地でとれたウランが、福島の事故に関わっている、原因が私たちの大地からとれたものであることをすごく悲しく思う、という表明をされていたんですね。国連の事務総長に宛てた手紙だったと思いますが、彼らの感じ方も私はすごく印象的で、彼らは自分達が傷つけたとまでは言わないけど、大地からとれたものの責任の一端を彼らが感じている。そうした土地への感じ方であったり、木村さんの言及されていた「1000年」というタイムスパンと、動植物の営みを見つめながら紡がれた言葉であったりを聞いていると、核兵器や気候危機も、短期的な利益に集中して語れる気がして。もっと長いスパンで「大切なものは何か」を考えてくれている人々が世界にいるけれど、(短期的な利益を考えることの)しわ寄せが、そうした人々や生き物にいってしまう。オーストラリアの先住民の姿勢を思い出し、そうしたことを感じました。
髙垣
今現在、原発の廃炉によって一日に約100トンから140トンの汚染水が生じ、その中にある核種を除去して海に放出するという話ですが、太平洋の人々、フィジーやマーシャル諸島の人々が自分たちの生活の場である海に放出されることに危機感を持っていますよね。「安全だから流す」ことで、その人たちの生活を大切にできているのかという疑問があります。日本だけでなく、海を通じてグローバルな問題として現在進行形であり、途方もない核の被害を生み出していると、僕は感じます。
少し話は戻りますが、元の街に戻れればそれで良いという人もいます。でも、12年経って、どんどん新しい建物が建ち、自分が生まれ育った街なんだろうかという人もいますよね。
木村さん
大熊町にはすごく大きな図書館があります。まず、一万人程度の街としてはすごく立派な図書館、これも原発があるからあったわけですが、地元にとっては愛着があります。でも、そういうものが残らないと、「大熊町」ではなくなってしまう。残るものだと思ってたら、急に議会で決まってしまい。署名運動も起こりましたが、半分くらい解体されてしまいました。
大熊町の図書館。現在は解体され、更地となっている。(2023年1月撮影)
大野駅の周辺が解除されて、2年の間に解体を決めれば、国から費用が出るという形で、近くにあった図書館は解体される。そういうものを、残すことにはお金は出ないのかな。
それが非常に残念です。だって自分達は奪われたので。あそこの場所を。東京電力もそうだし、国策ですよね。奪われたので、残せるものさえ、残してもらえないそんな中でね。
結局解除されるということは街がなくなっていく、大熊町がなくなっていくということ。元々生活していた住民にとっては、そんなとこに戻っても大熊でないから帰らないとなる。
今は、帰還者よりも移住者を増やすことに力を入れています。それについてもどうなのかなと私自身は思う。
もう一つ、第五福竜丸展示館に寄らせてもらった時に、映像を見ていたらある方が、自分たちは故郷にあった物語もどんどんなくなっていくんだという、大熊で私が感じていることと同じことを言っていて、共感しました。それでいいのかなと。残せるものはできるだけ残してほしい。
だけどなかなかそういう言葉が表に上がってきませんね。表に出しづらい。私自身が、そういう話をするようになった中で、この前3月11日に自宅に手を合わせに来てくれたご夫婦、先輩が「なんで大熊町は原発回帰に戻ろうとしている中で反対しねーんだ」とすごく憤ってました。表にはなかなか言えないけど、根っこの部分ではそういうことを感じている人がいるんだなと、嬉しかった。そういう人たちがもっと声をあげられるように、できるだけ発信していきたいと思います。
核の被害を考えるとは
最後は、核被害を考えるとき、どんなことを大切にしているかという話へ。
瀬戸
被害に触れるときには、自分がどこにいるのかを考えます。私は広島で被ばく者の方の声を聞くとき、誰も踏みつけていないと思い込んでいたし、昔のこととして考える、繰り返さないというルーティンになっていました。でも、日本の中だけで考えるよりも、私たちは誰かを傷つけることでしか過ごすことができない。できるだけクリーンな生き方をしたい、そこに近づいていきたいけど、自分が誰かを傷つけながら生きているということに、自覚的になることかなと。自己嫌悪に陥るということではなく、誰かの話を聞くときに、それを踏まえながらお話を聞いたり、対話をすることが大事だと感じます。
髙垣
生きているということが何につながっているのかを考えていく必要があるのかなと。スマートフォンのレアメタルが、紛争下の性暴力につながっていたり、服など生活の中で使うものが誰かを傷つけているかもしれない、そういうシステムを見つめることで、再生産されてきたものを食い止めたり、変えたりすることの一歩になるのかもしれないと感じてます。
木村さん
帰還困難区域の中で、田んぼを所有していて、10m四方くらいでコットンを全部手作業で作ってみたんですよね。Tシャツ一枚の5%くらいしか作れなくて、Tシャツ一枚作るのにどれくらいかかるんだろうと…。Tシャツ一枚1000円で買える、その裏で搾取されている人、犠牲になっている人ってたくさんいるんじゃないかと感じました。安くて良いという話ではなくて、その裏にはカラクリがある、そういうことに気づいてもらって、次に活かして、皆さんも知恵を絞って考えてほしいです。
横につながって
今年2月11日、木村さんたちは大熊町で「伝承の仲間づくりサミットin 大熊」を開催し、これまでに訪れ、繋がりのできた東北、広島、水俣、沖縄の人々が集いました。多くの参加者が、それぞれの地域で起きた出来事、それをどう伝えているかに耳を傾け、今後の「伝承のあり方」を模索しました。大熊未来塾では今年から、大熊町に住んでおられた方々の聞き書きを始めるそうです。オンラインでのイベントなども開催されているので、興味のある方はぜひ、参加されてみてください。
帰還困難区域内の熊町小学校に残る汐凪さんの机が再現されました
木村さんには、3月1日にマーシャル諸島共和国で公休日として定められる「核被害者追悼記念日」に寄せて、メッセージもいただきました。合わせてご覧ください。