8月24日、「世界のヒバクシャと出会うユースセッション」第10回セッションを開催しました。
ゲストは、小笠原勝さん、久保尚さんです。ジャーナリストの笹島康仁さんと太平洋核被災支援センターの濵田郁夫さんにもご協力いただきながら、当時の漁生活や被ばく時の様子など、とても貴重なお話をお聞きしました。以下、イベントの様子をまとめましたのでお読みください。
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<笹島さんからのお話>
皆さん、こんにちは。笹島康仁と申します。高知在住のフリーランスの記者で、以前は高知新聞で記者として働いていました。今私たちがいるのは室戸にある菜生(なばえ)公民館というところです。今日は、高知の漁船に乗船され被ばくを経験された小笠原さん、久保さん、そして船員の被ばく問題に深く関わってこられた濵田さんと一緒にお話ししていけたらと思います。
高知新聞の記者時代、私は放射線被ばくの問題に出会いました。
この問題の背景を簡単に説明します。アメリカは1954年から太平洋で67回の核実験を行い、これが日本の漁船に影響を与えました。その結果、1954年の3月から12月までに第五福竜丸を含む992隻の船が被ばくし、汚染されたマグロが日本に水揚げされたという記録が残っています。そう聞くと実験が行われたのは1954年だけと思ってしまいがちですが、実際には1946年から1958年まで実施されていました。しかし、日本政府は54年12月で検査を打ち切ってしまったので、被ばくした漁船の正確な数というのは分からないという実態があります。
「第五福竜丸」は聞いたことある方も多いと思います。第五福竜丸は1954年3月のブラボーという核実験ですごく近くにいたために、「死の灰」と呼ばれる放射性降下物を船に浴びました。無線長の久保山愛吉さんがその後亡くなり、大きな社会問題になりました。ただ、その第五福竜丸だけではなくて、実はそのもっと多くの日本の船、あるいはその島々に住んでいる方々も被害にあっているということを知ってもらいたいなと思います。
アメリカからは「見舞金」として200万ドルが支払われました。これは主に汚染された魚の処分に使われたため、船主の中には補償を受けられた方もいましたが、被害を受けた船員が受け取れるお金はわずか、あるいはゼロでした。そんな状況でしたが、私が思う「第五福竜丸」の事件が持つ歴史的に大きい意味は、その後の核廃絶運動のきっかけになるような出来事だったということです。1950年代の核実験、その被害に対して当時はもちろん反対運動はあったものの、しばらくして鎮静化していきました。しかし1980年代になって、高知の山下正寿さんという高校教師をされていた方が高校生と一緒に「核実験を見た、被ばくした」という方々の聞き取りを地域の中で始めます。今いる東の室戸や、西の土佐清水とか八田地域で聞き取りを行うことで、改めて問題になったという経緯がありました。
その後も長い間被ばくを示す決定的な証拠が見つからなかったのですが、2014年に厚労省への開示請求が通り、のべ556隻分の放射能検査や船員の血液、尿検査の記録が開示されました。国を訴える裁判を2016年に始めましたが、この裁判は高松高裁で敗訴という形で終わっています。ただ、被ばくは確かにしているんだけれども被ばく直後の健康調査が十分ではなかったということが明らかになったため、長年に渡って顧みられることが少なかった漁船員の救済の必要性については、改めて検証されるべきなんですよね。今も別の裁判は始まっていて、一つは国を訴える裁判、もう一つは船員保険という船員が入る保険があったんですけど、労災として認めてほしいと訴える裁判を東京地裁で行っているという状況です。
前提情報としては以上です。裁判などの最新情報はパンフレットやFacebookページで追っていただければと思います。ありがとうございました。
<インタビュー動画(事前録画)>
左:小笠原勝さん、右:久保尚さん
久保さん:第二幸成丸(だいにこうせいまる)に乗船してました。昭和11年の12月2日生まれです。終戦当時だし、貧しかったこともあって、中学を卒業するとすぐに第二幸成丸に乗船となりました。
小笠原さん:私は昭和9年4月10日生まれで、土佐清水市布という300人ほどの集落で生まれました。その後、第五海福丸(だいごかいふくまる)に乗船してました。
質問:どんなきっかけでマグロ船に乗ることになったんですか?
小笠原さん:私がマグロ船に乗ったのは昭和27年頃でしたが、当時は田舎の集落には百姓の部落と漁師の部落があったんですね。漁師の方の部落の者は、船に乗るのが一番手っ取り早かったんです。
質問:マグロ船っていうのは自分で選ぶものなんですか?マグロに乗りたいな、とか。
小笠原さん:そうです、まあマグロ船というのが、早く言えば収入が良かったと言うことです。その代わりまあ仕事はきつかったけれども。
久保さん:自分の場合は道がなかった。僕の場合は親がもう、中学出たらもう、幸成丸へご飯炊きとして乗るように決められちょったんですね。高校へ進学せん組はほとんどマグロ船やったね。室戸のまちそのものがもうマグロ船一色みたいな世やったけね。
質問:仕事はきつかったですか?
小笠原さん:そうですね、仕事はきつかったです。4時頃から起きて縄をひたすらはり、2、3時間休んでから揚縄といって縄を揚げていくわけです。漁が多いと徹夜もざらにありました。20人ほどで仕事を分担し、飯炊きや無線士などを除いて全員で船の作業をしていました。
質問:船員にはどんな役割があるんですか?
小笠原さん:船員にはね、まあ大きく分けて機関部、甲板部、それから無線士ね、それから”かしき”と言って飯を炊く係。大きく分けて、この4つやね。マグロ船は、操業したら、一日に4回食事する。そうせんと体が持たないから。
久保さん:夜食があったけね。
小笠原さん:そうそう夜食があるんだよね。朝昼晩と夜食がある。計4回やね。かしきは結構それで忙しいわね。他の人間は、手の空いた人間は全員デッキへ出てきて、縄を揚げたり、揚がってきたマグロの腹わたを出して、それで氷を入れて、冷蔵庫に入れるわけやね。私らの当時はまだ冷蔵設備があんまりなかったからね。
質問:お二人はどんな役割だったんですか?
小笠原さん:私は機関部でした。
久保さん:私は最初はご飯炊きから始まり、その後は表の家事、魚の解剖も覚えました。私らの場合は、昼はもう刺身に決まってましたね。朝は味噌汁、昼刺身、で夜何々ってそれはもう食料長が決めてくれるから、その通りにやりよったね。
質問:だからお米研ぐのも海水?
久保さん:うん海水でやってね。仕上げに水でこうちょっと。
質問:しょっぱそうですね。
久保さん:ね、考えたらね。(笑)船は軍隊帰りが多かったですね。終戦からまだわずかしか経ってないけんね。そらもう上下関係がきつかったです。
小笠原さん:私らはほんまにね、水爆の実験に行くとは東京港へ入ってくるまで何にも聞かされていなかった。船頭とか無線士とかは分からんけど、一般の船員はもうほとんど知らんやったと思うね。東京の港に入ったらね、厚生省の役人が白い制服着てガイガーカウンターを持ってきて、測り出したから最初は「何しに来たん」いうようなことを言ったらね、放射能を被っとるから検査せないかんいうことやったね。一番カウント(放射線量)が高かったのは、私らの知っている限りだと操業中にマグロの縄を上げる時に使う手袋。ほんと、カウンターが振り切れるぐらいの大きな音が出て。どうしてそれが高いか言うたらね、当時の手袋は、中にビニールが入って丈夫やったんよ。1週間から10晩くらいは使えたんよね。だからそういう意味で放射能がいっぱい溜まるわけです。その一週間分がね。海の中で揚がってくる縄を触ったり、それからマグロを捌いたりするから。それが蓄積して、そういう状態になったと思うね。
質問:自分らの体には向けられなかったんですか?
小笠原さん:体には向けられたことはなかったです。
久保さん:僕も体を外からこうやったのは覚えがないですね。
質問:周りの人らは心配してなかったんですか?
久保さん:町全体が漁の町やろ?町全体がそうなっていったらね、その当時はね。言われんて話。
質問:仲間らの病気は核実験とどのくらい関係していると思いますか?
久保さん:そりゃああったと思いますね。
小笠原さん:私らももう、まあこれ影響あるかどうか分からんけど、私もまあ心臓も悪くして何年かほんまに辛い目をしたこともあったしね。
質問:どんな気持ちで裁判に参加しているんですか?
久保さん:それはもう、核実験なくなるのが一番やわね。確かにそれは思うけんど、どうやって行動に移したらいいのか、分からない。思いはあります。
小笠原さん:アメリカからいくらかの補償が出て、当時の政治家はそれを全部漁協に渡したかどうかそれは知らんけど、ほとんどもう船員の手には渡ってないわね。まあ言えば、煙草銭ぐらいの額しか渡ってない。一体あとはどうなったのって言いたいとこやね。国からのそういう検査いうのは何もないね。未だかつて。当時はあんま分からんやったからね。
<Q&Aセッション>
Q: 証言を始めたきっかけと、話し初めたことによって自分の中で心境の変化などはありましたか?また、若い世代にこう動いてほしいだったり、こういう風に考えてほしいみたいなものがあったら教えていただきたいです。
久保さん:きっかけとしては、NHKの取材を受けたことがありますね。気持ちの変化というか、被ばくにおうて、ビキニでの問題があって、それでやっぱ、関心が湧いてきたなと。でっかい問題だからね。原爆をどうしてもなくせと、言わにゃこの問題は解決せんと思います。原爆をね無くさんと。
小笠原さん:きっかけは、山下さんが高校生の女の子4、5人連れて私が勤めておったとこに来まして取材を受けたことですね。東京へ入った時にそのガイガーカウンター当てられたいうことは分かっちょったけど、それ以降まあ私ら、それほど大きな大病したわけではないしね。こまい病気はしましたが、全然考えてなかったから山下さんが来た時に、「ああやっぱり被ばくしたのかなぁ」くらいでしたね。その後もしばらくはまあ何も考えんと平平凡凡と過ごしてきたようなわけなんですよね。でもその後裁判の原告ということになって、それからはまあちょっと考えるようになりましたね。
考えてみれば心臓病もやったことあるんですね。それ以外はまあ、その原爆の放射能と関係あるかないか自分じゃ分からんけどね。前に、歯磨きよったらちょっと見てみたら、洗面台の上が赤になっちょるのが見えた。なんだこらー思て歯ブラシ見たら歯ブラシも真っ赤になってましたね。その時はさすがに、やっぱり放射能のせいじゃろうかなぁとずっと考えます。結構歯に被害が出てる人は多いですよね。
笹島さん:歯のエナメル質に放射線を浴びると傷が残るんですけど、それを見ることで医療以外の被曝を測るという方法を研究で使っている人がいるんです。それで歯を調べようとしたんですけど、ご存命の方も何人かはもう歯がなくて。調べられたのが数人だったんですよね。でもその内2人ぐらい検査ができて、2人とも結構な数値が出たぞっていうのでその後少しニュースになっていました。100ミリシーベルトくらい、被曝量がありました。
ちなみに今お二人はこういう風にしてお元気ですけど、一緒に乗っておられた方はどんどん病気になったり亡くなられたりしています。このお二人はサバイバーと僕らは呼んでますけどね。本当にそういう状態だってことも分かっていただけたらと思います。
そして当時お二人もすごい若かった時に乗っているので、船がどういう航路を通るのか、どんなことが船主さんとやりとりがあったのかというのは当然知らないんですね。今原告にいる方々も当時10代とか20歳前後みたいな人たちがほとんどなので、当時の具体的な内情はそんなには知らないというところはあります。病気についても、取材を受けたり原告団になって話すようになったりという段階の中で、振り返るともしかしたらあの病気がっていう、その時その時に気づくというよりは後から何か感じる、でもそれもはっきりしない不安の中でというところがあるのかなというのを感じたりしました。
長期的な被ばくの影響についても、当時のことを考えると1954年って、広島・長崎の原爆からも9年しか経ってないわけです。だからその被ばくのイメージも、第五福竜丸は皮膚がすごいただれたりしてたので、そういう直接の被害が見えていればその後もやっぱり問題があったってなるんですが、長期的な影響についてはそんなに多く知られていたわけではない。そもそも原爆についての情報も最初は本当に出てこなかったものが多いんですね。すぐに被害者が声を上げられなかったって状況があるので、その放射能の被害に対する前提知識ってのは今と全然違うのかなと思います。
小笠原さん:こんな若い人がいたらね。人類の前に核というものが果たしているやろかというのを考えますよね。なくすように頑張っていきましょう。
Q: 国やアメリカ自身から未だに補償を受けられていない、認められないっていう状況に対してお二人はどういう風に感じていらっしゃるのかをお伺いしたいです。
久保さん:漁から東京に帰って、ガイガーカウンターを当てて検査をしよったけど、そのあと何もないもんね。あの一緒に乗っていた船の方らも病気してもなかなかね、病院行くのも大変やったってね。
もうしょうがない。全然私らの方には全然補助とかそんなものないけんね。
小笠原さん:国とかアメリカに対してまあ言いたいことはあるよね。被ばくした人に対して現在の医学の分かることはちゃんと調べてほしいということやね。
笹島さん:検査は全く第五福竜丸以外ゼロだったわけではないんですが、調べた船っていうのはほんとに少なかった。その内容も全然違うっていうのが僕の問題意識の一つではあるんですが、血液検査とかしている船もあったんです、お二人の船はないですけど。第五福竜丸に対しては尿検査までやってるんですね。尿を取ると残留の放射性物質が分かるので、大体どれくらいの内部被曝だったのかというのは算出されていくんですが、他の船に対しては被ばくの可能性があったのに、そういう検査をして残ってないので、それが証明できないというところがあります。
もう一つさらに被ばくの問題で、グローバルヒバクシャの問題でも同じような構造があるんですけれども、被ばくしたかもしれない被害者自身が病気との因果関係を証明しろと言われてしまっているという問題があります。当然その船員たちには情報がないので証明できないはずなんだけども。ただ、世界的に見ると、アメリカは自国の国民に対しては、そういう被ばくの因果関係を立証する必要はないようにしています。例えば、グアム島に当時1年ぐらい住んでいて、被ばくとの因果関係が強いこういう病気にかかったらもう推定して補償をしますよというふうな法律ができています。日本の場合も、被ばくの問題でもあるんですけども、原発の労働者などに対しては、白血病や癌、放射性の起因する可能性が高い病気にかかった場合、労災と認めますという基準があったりするので、全くできないはずはないんですけど。今は高知を中心とした船員たちは自分たちが証明しなきゃいけないっていうことを求められているのがすごく難しいことの一つです。
濵田さん:当時船員さんたちも、体調が悪かったら船におりにくいので、病院に行きたいんですけど…やっぱり補償がちゃんとしてないと船員さんたちは生活を守る必要があるので、具合が悪くても身体を騙し騙し船に乗っていたっていうことも、結構あったっていう話は聞きますよね。
Q: 調査を受けたりした時やメディアの人に質問された時はどんな思いでしたか?また、これまで被ばくに関して、本当にそこにいたんですかとか、本当に被ばくをしたんですかみたいな疑われることがあったかもしれないですけど、そんな時はどんな風に思いましたか?
久保さん:疑われるいうことはないけどね。僕らへの疑惑っていうのはね、そりゃ初めはあるけど、日本自体が認めてくれんことには何ともならんと思うので。それでなくとも世界が早く核を廃止すること。それが一番手っ取り早いと思う。自分が被ばくしたりとかいろいろあるけど、それがどういうことだったのかみたいなことを国が何にもしてくれんやんかっていうのがあって。何でなんって。
濵田さん:NHKで取材受けたりとかいろいろあって、周りからなんか言われたことは?
久保さん:言われたことはなかったね。
濵田さん:室戸では被ばくしたことに対することは言わないというのはずっとあって。今風評被害の問題が福島でもあるけど、言ってしまったらマグロが売れなくなる。だから言わなかった。そんな何か問題になるようなことを言ったら船に乗れなくなるから、黙ってたんですよね。あるいは被ばくしたと言うと差別を受けるかもしれないとか、いろいろ理由はあります。とにかく何十年もの間多くの方がずっと言わなかったということは事実としてあって、その中でこうやって久保さんや小笠原さんが証言し始めてくれたということには意味がすごくあって。それに対するちょっとねプレッシャーもあったとは思うんですけど、室戸の中では少しずつこういうことが出てきているよという感じですよね。
濵田さん:小笠原さんは自分がいろんなことを話すときそれに対するプレッシャーとかはなかったですか?
小笠原さん:なかったですよ。傍から言われたけど、気にする方がね(笑)
笹島さん:傍から何か言われても気にしない人たちだから(笑)実際の本当のことしか言ってないですよね。でもそういうことを気にして証言できない人は周りにいましたか?
小笠原さん:私の知っている人にはあまりいませんでしたね。本人が言わんかったら被ばくしとるかしていないか分かりませんからね。そういうことですよね。
笹島さん:証言のしにくさで補足をしておくと、二つあると思います。濵田さんがさっき仰ったように、室戸自体が漁業で成り立っている地域なので、言えば言うほど値段が下がっちゃうわけですよね。動画の中でもあったように、集落が本当にみんな漁業をやるみたいな場所なので、そういう場所で産業が成り立たなくなると、自分たちの首を絞めることになってしまうというのが、一個大きなこととしてあります。
もう一つは、遺伝のことを気にする方は多いです。自分が被ばくしたということを証明すれば、子どもとか孫に不安な気持ちにさせるんじゃないかということで言いづらいというふうに言う人に出会ったことがあります。日本の社会は、やっぱりなかなか誰もが表立って被ばくしたことを証言できるっていう環境ではないというふうには思っています。
<ゲストのみなさんから最後に>
小笠原さん:質問をよく思いつくよね。これからもこういう話を、場があればまだいろいろ通じ合うこともあるかも分からんね。
濵田さん:ですね。やはりこういう場を作ってもらうということはものすごい大事なことだなっていう感じをものすごく受けましたね。
久保さん:何回も言うけど、核をなくさんことにゃこの問題は解決できないよね。日本だけやないもんね。
濵田さん:僕もこれまで取材を結構してきたけど気がつかなかったとか、知らされてなかったということが、改めて大事な問題だなと、今日話を聞く中で思いました。久保さんにしても小笠原さんにしても知らされずに一月ぐらいずっとね、危険海域で操業していた。今まさに福島の問題も何か分からないままにことが進んでいくっていうのはあるんだろうし、日常生活の中でもやっぱり核の問題とかいろんなことが知らされないままに気がつかないままに進んでいることの怖さみたいなものもあって。こういう風にしていろんな場で話し合う中で表に出てくる。ものすごく大事なことだなぁと今日は改めて考えさせられました。どうもありがとうございました。
笹島さん:ありがとうございました。今回お二人がすごい貴重な、慣れないオンラインで緊張もしてると思うんですが、話してくれました。もし質問があったら僕とか濵田さんに投げてくれたら改めて聞いて、お返しするということができると思うのでぜひどしどし質問してもらったらいいと思います。
また、裁判は続いているので、過去のいろんな情報とかも含め少しずつ情報発信していきたいなと思っています。
この問題は高知の問題じゃないんですね。高知の漁船がたまたま情報が多いから高知で裁判が起こってるんですけど、今さっき言った992隻の中の270隻が高知なだけで、全国にそういうマグロ漁船員ってたくさんいたわけです。たぶん身の回りにもそういう被害があるんだけどそういう目で関心を寄せてもらえたらいいかなと思っています。ありがとうございました。
瀬戸(Y4G):ありがとうございます。被ばくっていうのが一体何なのか、今この瞬間に起こっていることが私たちにどう影響しているのか、そしてそれが未来どういうふうな健康被害に具体的になるのかならないのか、この不安とどう向き合うのかっていうことですけれども、お二人が当事者でお話を聞くというよりも、本当に私たちみんながどう当事者なのかということに向き合うかということなんだと改めて感じる日だったなと思います。同時に、やっぱりこの1時間半のオンラインで聞かせていただくっていうことはすごく難しくて、今日を出会いの入り口に、それぞれでもし会いに行ったりもっと高知のことや他の地域のことも調べたりっていう入り口にそれぞれできたらなと。私自身もお二人にとても会いに行きたいと思っているのでその時は笹島さんや濵田さんにご連絡を取って会えないかなということを画策したいなと思っています。
みなさん、今日は本当にありがとうございました。